「二十歳の原点」 補足
少し、「二十歳の原点」高野悦子さんについての文章を見つけましたので引用させて頂きます。
「独りであること未熟であること、これが私の二十歳の原点である。」
あまりにも有名なこの一節からこの本は始まっていく。
「二十歳の原点」は1960年代後期、いわゆる学園紛争はなやかりしころの 立命館大学の文学部史学科の女学生の書いた、痛切な魂の言葉が綴られた日記である。
栃木県で生まれ育った彼女は、修学旅行で訪れた古都の佇まいに引かれ、 首都圏の大学ではなくあえて京都・立命館へ進学する。
そして、アジビラが舞い、機動隊が学生達を排除しているキャンパスや、厳然と存在する 様々な差別、さらに様々な人間関係の中でもがき苦しみ、三回生になったある日、 彼女は列車に飛び込みその短くはかない一生を閉じる。
この日記を読むと、様々なことに共感し、また自分という人間の薄さに 情けなさがこみ上げてくる。
彼女は言う。
「私たちはただなんとなく育ち、何となく学生となり、なんとなく 社会へと出ていこうとしているのではないだろうか。そして学問とは、 日々を生きる人々にとっては、むしろ有害ですらあるのではないか」と。
非常に衝撃的な言葉で、ある意味ではこれ以上の真実はないのではあるまいか。
今思えば私自身高校時代、大学生になる、という決断を私は文字通り、「なんとなく」としていた。
そのことが、一体どういう意味を持つのかについて、全く考えることもしないまま。
ただ、現実には大学生にならなくても生きていく道はいくらでもあるし、 寒空の下道路工事をするおじさんや駅の売店のおばちゃんにとって、 我々がこんなに必死になってやっている学問とは、結局何の意味もなさないかもしれないのだ。
そんな当たり前の、しかしそうだからこそ気づけない真実を、彼女はきちんと知っていた。
そしてその問題に、自分なりに立ち向かおうとさえしていた。
また彼女はこうも言う。「人生は演技である」と。
正直、私はこの言葉に強く共感する。
結局、私たちは自分に割り振られた役割を演じているしかない悲しい、 とても悲しい生き物なのだ。
だから、私たちにできるのはせめてそれが仮面をかぶった演技である事を見破られないように、ひたすら演技をし続けることだけなのかもしれない。
だからこそ、人は独りで生きなければならないのであろう。
あまりと言えばあまりに残酷な、しかしどうしようもない人間の宿命である。
この日記は次のような詩が最後に記されている。
この詩を読むと、死を前にした人間の魂の、悲痛なまでの透明さを感じずにはいられない。
旅に出よう
テントとシュラフの入った
ザックを背負い
ポケットには
箱の煙草と笛をもち
旅に出よう
出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい
春の雨の日がよい
萌え出でた若芽が
しっとりとぬれながら
そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく
大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根本に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう
近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか
原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を喫おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで静かに休もう
原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
湖に小舟をうかべよう
衣類を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗やみの中に漂いながら
笛をふこう
小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
中天より涼風を肌に流させながら
静かに眠ろう
そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう
もう、この日記が書かれてから三十年以上の月日が流れた。
彼女の通った寺町広小路のキャンパスは衣笠に移転し、日記に度々登場する 「シアンクレ-ル」という喫茶店も今は無い。
学生運動は下火となり、自衛隊の海外派遣もあっさり許可されてしまう世の中になった。
ただ、つらくてつらくて仕方がなかったであろう彼女が、必死の思いで絞り出した コトバ達は、今でもまだ、私たちの心を揺さぶらずにはおかない。
結局、人はなぜ生きるのだろうか。
その答えを、人々はこれからも彼女と共に探し続けてゆくような気がするのである。
R.F.P. 2002.01.03(THU)より、引用させて頂きました。
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